カール・ペーター・ツュンベリーは、1743年11月11日、南スウェーデンのヨンショーピングで生まれました。1761年に医学を勉強するため、名門ウプサラ大学に進み、カール・フォン・リンネのもとで、医学のほか博物学を学びます。1770年に医学博士となりますが、その頃にはツュンベリーの情熱は博物学、特に植物学に注がれていました。フランス留学を経て、1771年にオランダ東インド会社に入社。同社の職員としてケープタウン、セイロン、ジャワで博物学のための植物採集などを行った後、1775年8月に長崎県の出島にあったオランダ東インド会社オランダ商館に、医師として赴任します。
扇形の人工島であった出島は、町とは1本の橋でつながれ、行き来するのを許されていたのは、係の役人や通詞などであったため、ツュンベリーが自由に行動できたのは出島内だけでした。そのため、初めは島内の植物や昆虫、島内で飼育する牛や豚の飼料として運び込まれる草の調査などを行っていましたが、やがて薬草採取が目的と称して、長崎奉行に付近の植物採集の許可を願い出ます。そして許可が降りるや、付近の野山へと植物採集に出かけていきました。
そんなツュンベリーにさらなる機会が訪れたのが、江戸への参府旅行です。毎年、3月になるとオランダ商館長は将軍に謁見するために江戸へ上る習わしがあり、商館医であるツュンベリーも同行することになったのです。1776年3月4日に出島を出発し、長崎街道、瀬戸内海、兵庫、大阪、京都、東海道をゆっくりと進む間、ツュンベリーは道中や宿泊地で植物や昆虫を積極的に採集。特に箱根の山越えの際には、ツュンベリーは人夫の労力を軽減するためと称してかごから降り、付近を歩き回ってたくさんの植物を採集しました。このようにあらゆる機会を活かして、博物学の標本と資料を集めるべく努力した結果、わずか1年4ヶ月という滞在期間だったにも関わらず、ツュンベリーは大変充実した収集を行い、日本を後にしました。
日本を後にしてから、スリランカやオランダ、イギリスなどを経て、ツュンベリーは1778年に9年ぶりに母国スウェーデンに帰ります。帰国したときには師リンネはすでに亡くなっており、また師リンネの教授引退にともなう人事で、母校ウプサラ大学の植物学講師に任命されていました。1783年には医学および植物学の正教授に、翌年には学長に就任。学長になってからは大学行政の仕事なども加わり、多忙を極めましたが、日本など各地から持ち帰ってきた莫大な標本・資料をもとに、論文や著書の執筆を精力的に行いました。
その著書の一冊が『日本植物誌(Flora Japonica)』(1784年刊行)です。本書はそれまで断片的にしか紹介されていなかった日本の植物相を、初めて近代科学の視点を通して、全体的なアウトラインを明らかにしたことが画期的でした。また取り上げたすべての種の学名を、師リンネの分類体系を踏襲して二名式学名(属名と種名の2語からなるもの。現在の生物種はすべてこの形式に従っている)で決定し、大部分の種について日本名をアルファベットで表記したことも大きな功績でした。彼が本書で記した日本産植物は総計401属812種に上りますが、そのうち彼によって初めて発見・命名された植物は26属および390種もありました。
このようにツュンベリーは日本の植物学において貢献したほか、“植物学者の黄金郷”と呼ばれたアフリカ大陸西南端に位置する喜望峰一帯の植物相に関する研究でも、多大な功績を上げています。また、旅行中の体験および見聞をまとめてスウェーデン語で記した『ヨーロッパ、アフリカ、アジアへの旅』全4部作は、当時のヨーロッパ人にとって未知の国であった日本なども取り上げられていたため、出版直後から評判となり、すぐにドイツ語、フランス語などに翻訳されました。
1828年に84歳で亡くなるまでウプサラ大学の教授であったツュンベリーは、誰に対しても親切で、分け隔てなく付き合ったため、学生みんなから慕われました。また、国王グスタフ3世からヴァーサ級ナイト勲章を授けられるなど、国内外から多くの褒賞と名誉を受け、幸福な生涯を閉じたと伝えられています。
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