1968年9月28日、レーナ・マリアはスウェーデン中南部の村、ハーボで産声を上げました。しかし、その誕生は医師や看護婦に戸惑いを持って迎えられました。体重2400グラムの小さな赤ん坊には両腕がなく、右脚は正常でしたが、左脚は右脚の半分くらいの長さしかなかったのです。生まれてから3日後にようやく面会を許された両親が、少しナーバスになりながら、ガラス越しに初めてレーナ・マリアを見たときに思ったこと。それは、可愛い―。この時、両親はレーナ・マリアを施設には入れず、自分たちで育てることを決心しました。
重度の障害を持つ子供を育てることはとても大変なことでしたが、両親はレーナ・マリアを、できるだけ普通の子供として扱いました。彼女自身も、持ち前の明るい性格でハンディキャップを否定的に考えず、次々と「できないこと」を克服していったのです。
スウェーデンでは、聴覚や視覚障害を持つ子供はそれぞれ専門の学校に通いますが、手足などの機能障害者はできるだけ普通の学校に通わせます。そして、国費によって介護アシスタントが1人付けられます。レーナ・マリアも小学校1年生から7年生(中学1年生)までアシスタントが付きましたが、彼女は身の回りのことはほとんど自分でできたため、アシスタントは学校では専ら事務仕事を手伝っていたそうです。
もちろん、できないスポーツはありましたが、3歳から習い始めた水泳は一級の腕前で、得意種目はバタフライ。後にスウェーデン・ハンディキャップ・ナショナルチームの一員に選ばれ、世界選手権で数々のメダルを獲得。ソウルのパラリンピックへの出場も果たしました。
そんなレーナ・マリアが生涯の仕事として選んだのが、歌と音楽。この選択には、彼女の篤い信仰も大きく影響しています。クリスチャンの多い地域で育ったレーナ・マリアは、小さなころから聖歌隊などで歌い、歌を通じて自らの信仰を人々に伝えていきたいと考えたのです。
レーナ・マリアのドキュメンタリーを1991年にニュースステーションが放送したことで、彼女は日本でも一躍有名になりました。ひとりで何でもこなす、新鮮な障害者の生き方に、視聴者から大きな反響が寄せられたのです。これをきっかけに翌年からほぼ毎年、日本でコンサートツアーを行っています。1995年には、お互いを理解し合える最良の伴侶、ビョーン・クリングヴァルと結婚。以降も国内外のコンサートツアーで忙しい日々を送っていましたが、2004年は国内活動に専念しています。
レーナ・マリアは自著の中で「どうしていつも人生を前向きに考えられるのか」という問いの答えとして、両親と信仰のほかに「困難より可能性に目を向ける性格」を挙げています。「手がないから、とにかく足を使いこなそうと思っただけ」と、がんばってハンディに打ち勝つといった気負いはまったく感じられません。
こんなレーナ・マリアの自然体の生き方が、彼女の澄んだ歌声に乗って世界を駆け巡り、人々の心にこれからも、感動をもたらし続けることでしょう。
参考著書
『レーナ・マリア フットノート 足で書かれた物語』
レーナ・マリア著 ビヤネール多美子訳DHC発行
『マイライフ レーナ・マリア』
野口和子著 朴栄子訳 いのちのことば社発行
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