「イラクから見れば、彼は多くを求めすぎる。ブッシュ政権から見れば、彼は賢明すぎる。何はさておき平和を欲する人々から見れば、彼は妥協を知らなすぎるだろう」
この前米外交官、ジョン・リッチ氏のコメントは、ブリクス氏の査察に対する姿勢をよく表しています。各国の思惑が交錯する中、イラクの大量破壊兵器査察を統括するという大役を与えられた彼が守り抜いたもの。それは、いずれの国の考えにも影響されない、国際公務員としての中立性でした。この中立性こそが、さまざまな国の諜報機関(特に米国と英国)に利用されていると批判を受けた国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)に代わる組織として設立されたUNMOVICを率いる者に、必要とされた第一条件だったのです。
1997年に国際原子力機関(IAEA)の事務局長の職を離れ、スウェーデン外務省での仕事に没頭する妻の傍らで家事をこなしながら、たまにハイキングに出かけるなど、引退生活を楽しんでいたブリクス氏を公職へと復帰させたのは、ある人物からの電話でした。2000年1月、夫婦で南極への観光旅行を楽しんでいた道中、エル・カラファテの観光局の列に並んで飛行機を待っていた時に受けたその電話の主は、国連事務総長のコフィー・アナン氏。当時、国連ではUNMOVICの委員長職の人事に難航していたのです。
この要職を担う人物として、UNSCOM前委員長ロルフ・エケウス氏をはじめ、数人の名前が挙げられては安全保障理事会に却下されていく中、アナン氏はブリクス氏を「君以外に候補はいない。君だったら安保理も全会一致で支持するはずだ」と説得。この言葉が、躊躇していたブリクス氏の心を動かし、この大役を引受けることを決心させたのです。
ブリクス氏は著書の中で、当時の心境を次のように語っています。「UNSCOMは長期的には“戦う捜査官”ぶりや西側諜報機関と一体化したことが逆効果となり、信用を落とすことにつながってしまった。(中略)一方、IAEAは、国連にふさわしくプロらしい抑制されたやり方で、しばしば多くの情報を引き出した。(中略)私はUNMOVICでこのIAEA型アプローチを試してみるのも魅力的に思えたのである」。
こうしてUNMOVICの委員長に就任したブリクス氏は、UNSCOMからの継続スタッフも含め、国連のみに忠誠を尽くす国際公務員を幅広く雇い入れ、新組織のスタートを切りました。そして新組織では、UNSCOM時代の好戦的な態度を改めるため「査察官は査察を行う相手に屈辱を与えてはならない」という考え方を査察官に徹底させたのです。これが後に、ブリクス氏はイラクに対して同情的すぎると、ワシントンの強硬派から痛烈な批判を浴びる結果となりました。また、あいまいな情報を鵜呑みにすることなく、確実な証拠のみを拠り所としたUNMOVICの安保理に対する報告書は、断定的な結論を望む国をしばしば落胆させることとなりました。
開戦ムードが高まり、メディアによる誹謗中傷を一身に受けても、ブリクス氏は証拠に基づき、真実を追求する姿勢を崩すことはありませんでした。開戦のその日まで彼なりのやり方を貫き、イラク問題の平和的解決の糸口を探り続けたのです。
1カ月足らずで終結宣言が出されたイラク戦争後、イラクでは未だ大量破壊兵器は発見されていません。ブリクス氏は、米国が大量破壊兵器を戦争の大義名分に利用し、情報を故意に操作したと非難しています。しかし、イラクに民主化への道を開いたことなど、戦争によってもたらされた歓迎すべき結果もあると、著書の中で語っています。
時には自らの考えさえも排除し、あくまでも中道をいく公平さ。ブリクス氏が示したこのような姿勢は、国際公務員として困難かつ重大な責務を担った査察官の、あるべき姿と言えるのかもしれません。
参考著書
『イラク 大量破壊兵器査察の真実』ハンス・ブリクス著
DHC発行 訳:伊藤真
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