それでは、ヨーロッパの北部郊外の小さな国が、自国民の健康に気遣うどころか食料供給さえも困難なときに、どのように世界でも一流の医療施設を設立するに至ったのでしょうか。キーになるのは、古いことわざにもある「必要は発明の母」という言葉のようです。同研究所に縁の深い幾人かの人物を取りあげながら、創設からこれまでの歴史を振り返ってみましょう。
 |
カロリンスカ研究所の創設者、カール13世。当初は軍医の研究施設として創設されました
|
当時の国王カール13世は、祖国の未来にある野望を抱いていました。それは、1809年のロシアとの戦争で失ったノルウェーとフィンランドを、自国の領土にしたいというものです。現実主義者だったカール13世は、当時の国民の生活や社会の様相を見て、自国が軍事力を取り戻し、この大いなるビジョンを実現するためには医学のノウハウを得ることが必要だと気づきました。
軍医を養成するため、まず知識階級にある多くの男性(女性はさらに100年間待たなければなりませんでした)に、一袋のお金と医療施設を設立するための指示書を与えました。当時、このような医療施設はヨーロッパでいくつか運営されていました。有名なのは、ベルリンとサンクトペテルブルグの研究所でしょう。
1810年12月13日、「Medico Chirugiska Institutet(医療外科研究所)」がストックホルムに創設されました。創設者の中には、化学品すべての基礎となる元素周期表を作成したイェンス・ヤコブ・ベルセリウスがいました。1817年、研究所は国王カール13世に敬意を表し、施設名に「カロリンスカ」を追加しました。
その後カロリンスカ研究所は、多岐にわたる医学分野において類のない画期的な研究を行ってきました。またノーベル賞選考委員会では、50人の教授が毎年生理学と医学のノーベル賞受賞者を選ぶ業務に携わっています。
1895年、アルフレッド・ノーベル氏が書いた遺書によってノーベル賞が創設されました。同年、氏はカロリンスカ研究所に生理学と医学の受賞者を選考するよう依頼します。最初の授与式が行われたのは1901年、受賞者はドイツの生理学者エミール・アドルフ・フォン・ベーリングでした。彼の最大の功績は、1800年代後半の戦場に蔓延したジフテリアに対する血清療法を研究したことでしょう。フォン・ベーリングはその後この発見からワクチンを生み出しました。世界で最初のワクチンの一つです。
 |
カロリンスカ研究所
|
今日、カロリンスカ研究所はストックホルムにキャンパスを2つ持ち、スウェーデンの主要な病院であるカロリンスカ大学病院と提携しています。研究所に所属する学生は総数6000人。その内3分の1は博士号レベルに達しており、毎年約200人が博士号を取得しています。この政府機関および4000人の従業員の指揮を執っているのは、生理学の教授ハリエット・ワルベリー・ヘンリクソン氏です。
逆説的ですが、1810年以後スウェーデンは一切戦争をしていません。カロリンスカ研究所で学んだ軍医たちは、軽傷や被弾による外傷を治療する代わりに、一般市民のコレラや伝染病などの治療という、人々の生活に根付いた業務を担ってきました。そしてその事実こそがおそらく、カロリンスカ研究所を世界大学ランキングで42位にランク入りさせ、世界の一流大学の一校へと導いた要因です。さらにカロリンスカ研究所は、世界の医学校のトップ10に入るアメリカ以外で唯一の医学系教育研究機関です。
今年、スウェーデン大使館はカロリンスカ研究所の200周年を祝い、また今後200年の発展と成功を祈り、イベントを開催しました。 

Go Up |
Top Page
|